日本のお菓子の歴史

古代の日本では果実や木の実などを総称して「くだもの」と呼んでいました。漢字が伝来し「くだもの」に「菓子」あるいは「果子」の字が当てられるようになり、そして、奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ぱれるようになったのです。

果実とはまったく異なる加工された食品ではありましたが、嗜好品としては果実同様なものとして「くだもの」と分類されたとも考えられています。

 室町時代から安土桃山時代にかけて茶道の隆盛に伴い、点心としての菓子が求められ始めました。中国では、肉類を用いてつくられている羊羹や饅頭がもたらされましたが、日本では仏教の影響下、肉類ではなく小豆や豆類など植物性の素材に置き換えてつくられるようになりました。これが後に、和菓子の方向性を決定したとも考えられています。

 一方、足利時代末から鎖国令までの間、世界は大航海時代の中にあり、南蛮菓子の輸入時代になっていました。カステラ·ボーロ·金平糖·カルメラなど、日本独自の製法が工夫され、和菓子として発展した菓子もあります。

 茶道とともに発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで工芸的趣向をこらしたものになり、京菓子として隆盛を極めます。しかし、江戸時代も後期になると京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が人気になります。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子といわれる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展しました。

 明治維新により鎖国令が解かれると、海外からドロップキャンデイ。

チョコレート・ビスケツトなどが輸入されるようになり、日本の菓子は革命ともいえる大転機を迎えることになりました。大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられるー方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法までー気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見ることとなったのです。